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東京地方裁判所 昭和42年(ヨ)2270号 判決

申請人 近藤隆広 外一名

被申請人 株式会社中村屋

主文

申請人らの申請をいずれも棄却する。

訴訟費用は申請人らの負担とする。

事実

第一、当事者の求める裁判

一、申請人ら

1  申請人らが被申請人に対し雇用契約上の権利を有する地位を仮に定める。

2  被申請人は、申請人近藤隆広に対し金三二一万六、九一一円および昭和四五年七月一日以降本案判決確定に至るまで毎翌月二五日限り金六四、二五〇円を、申請人塚原京史に対し金三〇〇万三、〇二二円および昭和四五年七月一日以降本案判決確定に至るまで毎翌月二五日限り金六三、三八三円を、それぞれ仮に支払え。

との判決。

二、被申請人

主文第一項と同旨の判決。

第二、申請理由

一、申請人近藤は昭和三六年四月一日被申請会社(以下会社ともいう)に雇用され、笹塚工場に勤務していたものであり、申請人塚原は昭和三三年四月一日会社に雇用され、以後昭和三七年四月まで本店勤務、同年五月から同年一二月まで阿佐ケ谷売店喫茶部勤務、昭和三八年一月一日から昭和三九年九月末日までは総評全国一般中村屋労働組合(以下全一労組という。)の専従、同年一〇月から新原町田売店勤務であつた。しかるところ、会社は昭和四一年七月二四日申請人近藤に対し諭旨解雇の、申請人塚原に対し懲戒解雇の各意思表示(以下本件解雇という。)をした。

二、しかしながら、本件解雇は次のいずれかの理由によつて無効である。

(一)  本件解雇は正当な争議行為を理由とするものであつて、不当労働行為として無効である。

昭和四一年春斗に際し、全一労組では春斗の諸準備とこれを斗い抜く為の諸活動にとつて、組合業務に専従する者(以下専従という。)が必要であり、又これに加えて当時沖繩・小笠原島返還斗争を国際的に広め、世界平和と民主主義を確立する目的の下に、同年五月一四日から中華人民共和国(以下中国という。)で開かれる予定であつた「中国亜非団結委員会」に日本・アジア・アフリカ連帯委員会(以下A・A連帯委員会という。)の組織する訪中代表団の一人として全一労組から申請人塚原を派遣することとなり、同年三月中旬頃同労組中央執行委員会でこの旨機関決定がなされた(全一労組は組合結成当初から沖繩・小笠原返還要求を組合活動の一つとして取り上げてきたものであるが、このような活動も正当な組合活動として組合が自主的に決定し行い得ることは明らかである。)ので、この点においても申請人塚原を相当期間右組合活動に専従させる必要があつた。ところで全一労組は、昭和三七年八月組合結成当初組合員数約八〇〇名を擁しており、財政上専従の賃金保障をなし得たので、同年九月二八日会社との間に専従協定を締結し二名の専従を置いて組合活動に従事させることができた。しかしながら後記の如き会社の支配介入によつて昭和三九年九月には組合員数約二〇〇名となり、長期の専従を置くことが財政上困難となつたので、全一労組では当時専従であつた申請人塚原の任務を同月末日で解き、以後専従体制を必要とする場合には組合三役等が会社を数日ずつ欠勤する方法により組合活動に専念することとした。しかるに会社は従前全一労組の組合員が組合活動の為に欠勤することを許可してきたのに拘らず、同月頃以後昭和四一年にかけてこれを許可しないようになつてきたので、全一労組では毎年会社に対し短期専従制の確立・組合活動による欠勤を許可するよう要求し、団交を申入れてきたが、会社はこれら要求を一方的に拒否するのみであつた。そこで昭和四一年三月全一労組は春斗において賃上げ要求のほか短期専従制の確立・組合活動による会社欠勤を許可するよう要求して会社に団交を申入れた。ところが会社は団交において右二点につき誠実に協議を尽そうとせず終始拒否するばかりであつたので、全一労組では前記要求の貫徹の為昭和四〇年九月三〇日の組合大会で確立された年間スト権に基づき(なお昭和四一年四月六日の組合大会においても右スト権は確認されている。)、昭和四一年五月九日会社に対し「組合業務に専従の為、申請人塚原を、定休日を除き五月一四日から六月二〇までの間指名ストに入れる」旨通告し、申請人塚原は同年五月一四日から中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席し同年六月二六日帰国した。なお申請人塚原は会議の都合で帰国予定が同年六月二七日に延期されたので、全一労組は同月一九日会社に対し、「申請人塚原の指名ストを同月二七日まで延長する」旨通告したが、同申請人がたまたま同月二六日帰国した為、同日全一労組は会社に対し、「申請人塚原の指名ストを六月二五日で解き、六月二六日から職場に復帰する」旨通告した。しかし同申請人は未だ専従すべき組合業務が残つていたので、全一労組では同月二七日付をもつて会社に対し「申請人塚原を同月二六日も指名ストに入れ、二七日から職場に復帰する」旨通告した(以下、五月九日以降の数次に亘る指名スト通告を合わせて本件指名スト通告といい、これに基づく指名ストを本件指名ストという。)。本件解雇は、正当な争議行為である本件指名ストの故をもつてなされたものであるから、労働組合法(以下労組法という)第七条一号に該当する不当労働行為として無効である。

(二)  本件解雇は、申請人らが全一労組の組合員であること若しくは組合活動をしたことを理由とする不利益取扱であり、又全一労組に対する支配介入であつて、労組法第七条一、三号に該当する不当労働行為である。

会社では昭和三六年一一月各職場で労働組合結成の要求が高まり、当時本店勤務であつた申請人塚原、小柳亜雄が中心となつて労働組合結成の準備活動を行ない、翌三七年八月二八日会社の従業員約八〇〇名をもつて全一労組を結成した。申請人塚原は全一労組結成と同時に中央執行委員書記次長になり、申請人近藤は同労組笹塚支部執行委員となり、その後申請人塚原は同年一二月二八日の全一労組臨時大会において中央執行委員書記長に、昭和四〇年九月の組合定期大会で副委員長に選任され、申請人近藤は昭和三八年五月の全一労組第一回定期大会で中央執行委員長に選任された。なお申請人塚原は昭和三九年一〇月全一労組の上部団体たる総評全国一般東京地方本部の執行委員にも選任された。そしてこの間、申請人らはいずれも全一労組の中にあつて最も指導的な地位を占め、会社に対する毎年の春斗、一時金斗争、配置転換等企業合理化の反対斗争をはじめ、組合内部においては組合員の階級的自覚を高める為の教育活動や文化活動を、又対外的には日韓会談反対斗争、沖繩・小笠原返還斗争等活発な組合活動を展開してきた。

ところが会社は、右の如く戦斗的な全一労組および申請人ら組合員をいたく嫌悪し、同労組結成前から組合および組合員に対し次の如き数々の支配介入、不利益取扱を行なつてきた。

(イ) 会社は申請人塚原が全一労組の結成を準備中、昭和三七年五月頃、組合の結成を惧れて、申請人塚原を活動に不便な阿佐ケ谷支店へ配置転換した。

(ロ) 会社は、全一労組結成の直後これに対抗するべく職制を中心とする約二〇〇名の従業員をもつて中村屋労働組合(以下中村労組という。)なる第二組合を結成せしめ、同時に右職制を通じ全一労組員に対し、「第二組合に入つていないと特別報償金が貰えない」、「全一労組は会社を潰すものだ」、「全一労組は上部団体に引きずり廻されている」等とデマ宣伝を流す一方、組長ら下級職制を中心とした「統一促進有志会」なるものを作り、全一労組を上部団体たる総評全国一般から脱退させ企業内組合とするため右両組合統一を呼びかけさせ、徹底的に全一労組の組織弱体化を狙つて分裂工作をした。その為、全一労組は大いに動揺をきたし、上部団体たる総評全国一般のオルグ活動の甲斐もなく大挙して組合を脱退したので、全一労組は残存組合員数七〇名位に激減した。そして全一労組からの脱退組合員は「統一促進有志会」が結成した新中村屋労働組合に加入し、同組合はやがて第二組合たる中村労組と組織統一を計り、ここに全中村屋労働組合(以下全中労組という)を結成するに至つた。

(ハ) 組合員数約七〇名の少数組合となつた全一労組は組織強化を計るべく、昭和三七年一二月二八日組合臨時大会を開き委員長に飯田守、副委員長に都丸正義、書記長に申請人塚原を選出したが、会社は右飯田に対し脱退勧誘を行ない、同人をして数日後に全一労組から脱退せしめた。

(ニ) 昭和三八年頃、会社は全従業員に配布される社内報に、全一労組は斗争至上主義である等と記載して全一労組の指導方針を誹謗した。又会社は全一労組が同年夏期一時金斗争中、先ず全中労組との間に夏期一時金の協定を締結し、全一労組に対しては全中労組と同一内容の協定を締結するのでなければ団交に応じないとして、全一労組との団体交渉を故なく拒否した。

(ホ) 会社は全一労組の組織拡大をくい止めるべく全中労組との間に同年三月二三日ユニオン・シヨツプ協定を、次いで同年六月チエツク・オフ協定を締結したが、その頃同労組から六一名の組合員が脱退して全一労組に加盟したのに拘らず、会社は依然として全中労組との間のチエツク・オフ協定に藉口し、同労組の為に右脱退者の賃金からチエツク・オフを続けた。

(ヘ) そこで右六一名は会社のチエツク・オフを不当として、同年九月一日会社を被告として東京地方裁判所に未払賃金請求の訴訟を提起したが(当庁昭和三八年(ワ)第七五六五号事件)、会社は職制を通じ右六一名の者に対し、「全一労組の本質を知つているのか。裁判をやれば金がかかるんだ、組合は面倒をみてくれないから、結局自分の負担になるぞ」等と述べさせ全一労組からの脱退を暗に勧誘した。又会社は右訴訟中、原告の一人であり、右訴訟活動の中心人物であつた全一労組員藤田に対し、訴訟活動を困難ならしめる意図でいわれなく大阪支店への配転を命じた。

(ト) 全一労組が昭和三九年九月末日で申請人塚原の専従を解き職場へ復帰させたところ、会社は同年一〇月九日申請人塚原をして、組合活動を困難ならしめる意図でその現職であつた阿佐ケ谷売店喫茶部から新原町田売店へ配転した。

(チ) 昭和三九年暮以降会社は企業合理化の名の下に、従来いずれも慣行として認められていた、職場内での組合活動、組合活動の為の会社欠勤を許可せず、組合活動の為の会社施設の利用、団体交渉の時間等については全中労組と差別取扱をした。

このように平素申請人らの活発な組合活動を嫌悪し、全一労組の壊滅を狙つていた会社は、今回申請人らを職場から放逐して一挙に全一労組破壊の野望を達すべく本件解雇におよんだのであつて、本件解雇は申請人らが全一労組の組合員であること若しくは組合活動をしたことを理由とする不利益取扱であり、全一労組への支配介入であること明らかである。従つて本件解雇は労組法第七条一、三号に該当する不当労働行為として無効である。

(三)  本件解雇は解雇権の濫用として無効である。

本件指名ストが三八日間に亘つたとしても、これによつて会社が受けた実害はない。又申請人らはいずれも勤務に精励し、良好な勤務成績を残してきたものであるところ、会社はこれらの事情を斟酌することなく本件解雇におよんだものであるから、本件解雇は解雇権の濫用として無効である。

三、ところで会社は、申請人らとの雇用契約は本件解雇により終了に帰したとして、昭和四一年七月二五日以降申請人らの就労を拒否しているが、本件解雇が無効である以上申請人らは賃金請求権を失わないものというべきである。

四、申請人らの賃金額などは次のとおりである。

(一)  会社においては、毎月の賃金は、本件解雇当時から昭和四二年九月までは毎月末日締め切り翌月一〇日支払であつたが、同年一〇月一日以降は賃金のうち、固定部分(年功給、仕事給、住宅手当)については毎月末日締め切り当月二五日支払(従つて一部前払)、変動部分(勤務手当、残業手当)については毎月末日締め切り翌月二五日支払である。

申請人らの受くべき昭和四一年七月二五日以降昭和四五年六月分までの賃金合計額は、申請人塚原のそれは金二〇五万八、九九六円、申請人近藤のそれは金二二二万〇、八一八円(いずれも本件解雇後における賃金改定を基準として算定)である。

(二)  会社では従業員に対し、昭和四一年から同四五年までの間夏期一時金および冬期一時金をそれぞれ毎年六月および一一月に支給してきたものであるが、申請人らの受くべき昭和四一年以降昭和四五年までの一時金(昭和四一年は冬期一時金、昭和四五年は夏期一時金のみ)の合計額は、申請人塚原のそれは金八三万四、六一六円、申請人近藤のそれは金九三万二、七三三円である。

(三)  申請人らは通勤に要する交通費として毎月会社から定期券代の実費を支給されていたが、昭和四一年八月以降昭和四五年六月までの間に支給されるべきその合計金額は、申請人塚原のそれは金一〇万九、四一〇円、申請人近藤のそれは金六万三、三六〇円である。

(四)  上記のとおり、申請人近藤が会社から支給を受けるべき昭和四一年七月二五日以降昭和四五年六月分までの賃金・一時金・交通費の総額は金三二一万六、九一一円であり、申請人塚原のそれは金三〇〇万三、〇二二円である。

又申請人近藤は昭和四五年七月分以降の月額賃金として毎翌月二五日限り七一、七一八円の申請人塚原は同様六〇、四三〇円の支払を受ける権利を有する。

五、しかして申請人らは会社から支給される賃金を唯一の生活の資とする労働者であり、本案判決の確定までの間賃金の支払を得られなければ生活上著るしい損害を蒙るおそれがあるから本件申請におよぶ。

第三、申請理由に対する被申請人の答弁と主張

(答弁)

一、申請理由一は認める。

二、申請理由二のうち、

(一) 同(一)については、昭和三七年九月二八日会社と全一労組との間に専従協定が締結されたこと、昭和四一年三月全一労組が春斗において賃上げ要求をして会社に団交を申入れたこと、同年五月九日およびそれ以降申請人ら主張の日にその主張の如く全一労組から会社に対して本件指名スト通告がなされ、これに基づいて本件指名ストが行われたこと、申請人塚原が同月一四日から中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席し、同年六月二六日帰国したことおよび本件解雇が本件指名ストを理由としてなされたことは認めるが、他の事実は争う。

(二) 同(二)については、昭和三七年八月二八日全一労組が結成されたこと、会社が昭和三七年五月頃申請人塚原を本店から阿佐ケ谷売店喫茶部へ配転したこと、全一労組結成直後に中村労組および全中労組が順次結成されたこと、会社が全中労組との間に、申請人ら主張の各協定をその主張の日時に締結したこと、全中労組脱退者と称する六一名について、会社がチエツク・オフを継続したこと、右六一名が会社を被告として申請人ら主張の日にその主張の如き訴訟を提起したこと、右訴訟係属中に会社が藤田に対し大阪支店への配転を命じたこと、会社が昭和三九年一〇月九日申請人塚原を阿佐ケ谷売店喫茶部から新原町田売店へ配転したことは認めるがその余の事実は争う。

労働組合への加入・脱退は組合員からの意思表示によつてなされるべきであり、全中労組の規約上にもそのように定められている。しかるに右六一名の脱退については右の如き意思表示はなく、六一名の氏名を連記した全一労組名義の脱退届が全中労組宛に提出されたものであつて適法なものではなかつた。会社は全中労組に対し右六一名の脱退の事実の有無について照会したが、同労組からその事実はなく六一名についてのチエツク・オフを継続されたい旨の回答があつた。会社としては、右六一名に関しチエツク・オフ協定の解約がなされない以上、協定上チエツク・オフの義務あるものと考え、六一名のチエツク・オフを継続したものに過ぎない。会社が全一労組員の藤田に対し、前記訴訟中に大阪支店への配転命令をなしたのは、会社の業務上の必要に基づくものであつた。しかも藤田において右配転命令を拒否したので、会社はこれを撤回し、改めて窪田を大阪支店へ配転した。申請人塚原を阿佐ケ谷支店に配転したのは会社の業務上の必要に基づくものであり、同申請人を、その原職場たる阿佐ケ谷売店喫茶部から新原町田売店へ配転したのは同申請人が当時十二指腸潰ようの手術後であつたことから、通勤の便利を計らつた措置で、しかも右配転については同申請人の承諾を得て行つたものである。なお、会社は全中労組および全一労組の双方に対し、業務上の支障がない限り就業時間中の組合活動を許可してきたもので、差別取扱をした事実はない。

(三) 同(三)は争う。

三、申請理由三のうち、会社が昭和四一年七月二五日以降申請人らの就労を拒否していることは認める。

四、申請理由四および五は、いずれも争う。

(主張)

一、本件指名ストは、次のいずれかの理由により争議行為としての正当性を欠き違法である。

(一) 本件指名ストは争議権の濫用である。

申請人塚原の中国渡航は全一労組の正式な機関決定を経ずしてなされたものであること、従つて全一労組員自体申請人塚原の中国渡航の事実を知らなかつたこと、右中国渡航については全一労組からも上部団体からも費用の支出がなかつたこと、全一労組にとつて最も重要な組合活動と考えられる春斗中に、同労組の指導的活動家と自負する申請人塚原がこれを犠牲にしてまで中国渡航をしたこと、申請人塚原の中国渡航は全一労組結成以来初の画期的出来事であつたのに拘らず、この件に関し同労組では組合大会も開かず、情宣ビラも出さなかつたこと、訪中団を組織したA・A連帯会議なるものは個人加盟の団体であり、全一労組と何の関係もなかつた(申請人塚原のみが加盟)こと、以上の事実に照らせば申請人の本件中国渡航は、本件指名スト通告にいわゆる「組合業務」と無関係な同申請人の私的行為であつたものと認めるほかはない。(仮りに全一労組の正式な機関決定を経たものとしても、労働条件の維持改善に関係のない右行為が正当な組合活動であるわけがない。)ところで全一労組はこれまで再三に亘り、組合業務に従事させる為と称して組合員を指名ストに組み入れ職場離脱をさせてきたが、会社がこれに対する警告はしても処分はしなかつたことを奇貨とし、本件についても申請人らが謀議を凝らした結果指名ストに藉口し、春斗活動に従事するかに装つて、申請人塚原の中国渡航の目的を達するため本件指名スト通告に至つたものである。要するに本件指名ストは、申請人塚原が中国渡航の為会社に対し欠勤許可申請をしても不許可となることを予想し、申請人塚原をして専ら無断欠勤による就業規則違反の事態を回避し、これによる責任を免れることを目的としたものであり、争議権の濫用として違法である。

(二) 本件指名ストは、全一労組においてスト権を確立せずしてなされたものであつて、違法な争議行為である。

(三) 本件指名ストは政治ストである。本件指名ストの目的が、全一労組における「組合業務」専従の為であるとしても、右にいう組合業務とは本件の場合沖繩・小笠原返還斗争を国際的に広め、世界平和と民主々義の確立の為の訪中ということであつて、右の如き事項は、パン菓子類製造販売業者である会社の処理解決し得ない事項に属し、対使用者との関係において労働条件の向上を目的としたものではないから、本件指名ストは争議行為の正当性の限界を逸脱したものとして違法である。

(四) 本件指名ストは専従協定上の平和義務に違反する。

会社と全一労組との間には、本件指名スト当時専従協定が有効に存在しており、右協定の有効期間中全一労組は、組合事務について同協定の定めるところに従い、専従によつてこれをなすべき義務があるところ、同労組は本件協定を解約せずして、申請人塚原を本件指名スト要員に組み入れることによつて組合事務の遂行に当らせたものであるから、本件指名ストは右専従協定違反の争議行為であつて違法である。

二、本件解雇の理由は次のとおりである。

前記のとおり本件指名ストは違法な争議行為であるところ、申請人塚原は全一労組の副委員長として本件指名ストを企画・決定・実行し、昭和四一年五月一四日から同年六月二六日までの間定休日を除き、三八日間も会社を無許可欠勤したものであるから、会社の就業規則上懲戒解雇又は諭旨解雇事由を定めた第六五条一項四号「正当な理由なく無許可欠勤一四日以上にわたつたとき」に該当する。又申請人近藤は当時全一労組の委員長として本件指名ストを企画・決定・指令し、申請人塚原を指名スト要員に組み入れ、同申請人をして前記の如く会社を無許可欠勤させ、もつて会社の作業を著るしく阻害するとともに会社の服務規律を乱したものであつて同条一項一三号「その他前各号に準ずる程度の行為があつたとき」に該当する。

ところで会社の就業規則第六五条二項には「前項の規定にかかわらず、その情状特に酌量すべきであるときは、譴責・減給・出勤停止・降格・役付罷免のいずれかに止めることがある」旨規定されているが、申請人らがいずれも全一労組の最高幹部であること、会社が本件指名ストの通告に接し、直ちに警告を発したにも拘らず、申請人らはこれを無視し本件指名ストを実施したこと、その他本件指名ストが三八日間の長きに亘つたこと等に徴せば、本件違法ストの情状は極めて悪質重大であるというべく、加うるに申請人らは全一労組の最高幹部として過去多数回に亘り本件同様の違法な指名ストを企画・決定・指令し、組合員をして会社を無許可欠勤させ又は組合関係の卓球試合に出場させる等の暴挙を行なつたことを考慮に入れるときは、申請人らには情状酌量の余地は全くなかつた。

そこで会社は昭和四一年七月二四日申請人塚原につき就業規則第六五条一項四号を、申請人近藤につき同一三号を適用して本件解雇におよんだものであつて、申請人らと会社との間の雇用関係は同日終了に帰したものである。

第四、被申請人の主張に対する申請人の答弁

一、被申請人の主張一は全て争う。なおそのうち、

(三)については、本件指名ストは会社に対して沖繩・小笠原返還を要求してなしたものではないから、右をもつて政治ストであるとする会社の主張はいわれがない。

(四)につては、会社と全一労組との間の専従協定によれば専従者を二名とし、その増員については両者協議して定めるものとされているに過ぎない。ところで平和義務違反云々の問題は、右協定が現実に実施せられ、専従として二名が活動している場合にこれ以外の者を更に専従とする為に組合が争議行為をもつて斗う場合に生ずるに過ぎない。しかるに全一労組は協定上別段の定めなき専従期間について、短期専従制の確立を要求して本件指名ストをしたのであつて、平和義務違反の問題は生じない。仮りに平和義務違反の争議行為に該るとしても、それだけでは当然に懲戒処分の対象となるものではない。

二、同二の事実中、申請人塚原が全一労組の副委員長として本件指名ストを企画・決定・実行し、昭和四一年五月一四日から同年六月二六日までの間定休日を除き三八日間に亘り会社を欠勤したこと、申請人近藤が同労組の委員長として本件指名ストを企画・決定・指令し、申請人塚原を指名ストに組み入れ、同申請人をして前記の如く会社を欠勤させたこと、会社の就業規則には、会社の主張する如き規定があり、本件解雇が本件指名ストを理由として、右規定を適用してなされたものであること、全一労組が過去において何回か指名ストを行なつたことは認めるが、他は争う。全一労組が過去において何回か指名スト戦術を行使せねばならなかつたゆえんは、会社との間に専従協定がありながら、会社が激しい組織攻撃を全一労組に対して行ない、全一労組をして財政上長期専従を置き得ないような少数組合へと立ち至らせ、しかも全一労組が要求した短期専従制および組合活動の為の欠勤の保障を会社が拒否してきたことに起因する。なお仮りに本件指名ストが違法であるとしても、争議行為は集団的労働行為たる組合の行為であつて使用者の指揮命令から従業員が離脱することによつて成立するものであるから、使用者の指揮命令権が及び服務規律の遵守が期待される個別的労働関係を前提とする就業規則上の懲戒責任を科することは許されない。

第五、疎明〈省略〉

理由

一  申請人近藤は昭和三六年四月一日会社に雇用され笹塚工場に勤務していたものであり、申請人塚原は昭和三三年四月一日会社に雇用され、本店、阿佐ケ谷売店喫茶部勤務を経て昭和三八年一〇月から新原町田売店に勤務していたものであること、全一労組は昭和四一年五月一四日から同年六月二六日までの間定休日を除く三八日間に亘り申請人塚原を指名スト要員として本件指名ストを行なつたこと、当時、申請人近藤は全一労組の委員長であり、本件指名ストを企画・決定・指令したこと、申請人塚原は同労組の副委員長であり本件指名ストを企画・決定・実行したこと、および会社は本件指名ストが違法な争議行為であるとして、これを理由に昭和四一年七月二四日申請人らに対し本件解雇におよんだものであること、以上の各事実については当事者間に争がない。

二  そこで、本件指名ストが正当な争議行為であるかどうかについて判断する。

(1)  本件指名ストに至るまでの労使関係

昭和三七年八月二八日、会社従業員の一部をもつて全一労組が結成されたこと、同年九月二八日同労組と会社との間に専従協定が締結されたこと、申請人塚原は昭和三八年一月から全一労組の専従であつたところ、同労組は昭和三九年九月末日同申請人の専従を解いたこと、以上の事実は当事者間に争がなく、右事実に、成立に争のない疎甲第二六、第二七号証、第三四号証、第四一、第四二号証、第四五号証の一ないし三、第四六号証の一、二、疎乙第一四ないし第二八号証、第三〇号証、第三三ないし第三七号証、証人入江滉の証言により成立を認め得る疎乙第三二号証の各記載、証人入江滉の証言、申請人塚原京史本人尋問の結果を綜合すれば次の事実が一応認められ、この認定に反する疎明はない。

全一労組は結成当時約八〇〇名の組合員を擁していたので、昭和三七年九月二八日会社との間に前記専従協定を締結し、渡辺書記次長および天野執行委員の二名を専従に充ててきたが、後記三の(二)、(3)に認定の如く組合員の相次ぐ脱退により、同年一二月末頃には組合員数は約七〇名に減少し、専従を置く程の財政的余裕のない状態に立ち至つた。しかし、同組合は、組織の建て直しが急務であるとし、同月二八日開催の組合臨時大会において書記長に選任された申請人塚原を組織活動に専念させるため昭和三八年一月一日以降専従としたが、長期専従者の賃金保障はいよいよ困難となつたばかりか、たまたま申請人塚原において痔を患い手術したこともあつたため、遂に昭和三九年九月末日限り同申請人の専従任務を解くに至つた。これと同時に全一労組においては、爾今専従者を置かないで、必要に応じてその都度組合三役または組合員を欠勤せしめて組合活動もしくは組合業務の処理を行なわしめる方法を採ることに決め、殊に昭和四〇年一月末頃からは、同労組の中央執行委員会・春斗時における諸準備活動(原稿切り等)・全国一般の大会参加等のため、申請人らを始め中央執行委員らが組合活動ないしは組合業務の処理を理由として、しばしば、会社に欠勤、早退の許可申請をするようになつた。全一労組は、専従を置かなくなつて以来会社との団交等において、組合活動の為の欠勤は組合員の自由にさせ、短期専従制を認めるよう、要求してきた。全一労組と会社との間の前記専従協定においては、(一)、会社は、組合が組合員の中から組合業務に専従する者を二名以内においておくことを認める、(二)、組合は、専従者をおこうとするときは、あらかじめ会社に通告しなければならない。(三)、組合が専従者として選任した者については、会社は原則としてこれを認める旨定められており、専従期間については何らの定めもないが、同協定には、専従者となつた者の取り扱いについては、専従期間中休職とする旨定められている関係上、従来労使間では長期間(例えば一年間程度)の専従を協定した趣旨に了解されていた。会社は、組合が専従を置いて組合業務に従事せしめることは一向差支えないが、専従でない従業員は組合活動の為の欠勤とはいえども就業規則上は会社の許可事項であり、その許否は専ら業務上の支障の有無を基準として決するとの態度をとり、全一労組員からの前記欠勤・早退申請に対し、その都度勤労課から当該組合員の所属する現場長に問い合せた上、当該組合員の欠勤・早退により業務上の支障が生じるか否かを判断して許否を決してきたが、全一労組の専従者を置けない状態を考慮して、できるだけ組合活動の為の欠勤・早退を許可するよう配慮していた。しかるところ、全一労組では組合活動のための欠勤は元来全面的に許可さるべきもので、これを許可しないことは団結権の侵害であるとの態度を固執するようになり、昭和四〇年春斗に際して、同年四月一一日付で会社になした申請人塚原、中央執行委員石田迪男、町田勲、小柳亜雄の四名についての春斗時における組合業務を理由とする欠勤申請(申請人塚原は四月二七日、二八日、三〇日、五月二日の四日間、石田迪男は四月一三日から一八日まで六日間、町田勲は四月二〇日から二五日まで六日間、小柳亜雄は五月四日、六日から九日まで五日間)が会社業務運営上支障ありとの理由で拒否されるや、右欠勤不許可は組合活動の自由を侵害し組合活動の弾圧であるとして、右四名を指名ストに入れ、申請人塚原については四月二七日から二九日までの三日間、石田迪男については前記の六日間、町田勲については前記の五日間、小柳亜雄については五月六日から九日までの四日間、それぞれ欠勤せしめて組合業務の処理に当らせた。次いで昭和四一年春斗に際しては、全一労組は前記のような組合業務の処理を理由とする指名ストを強化し、同年三月初め頃から同年四月末頃に至るまでの間に、しばしば指名ストを行つたところ、その間、申請人塚原は三月六日から同月二〇日までの一五日間、同月二八日から四月一〇日までの一四日間、四月二二日から同月三〇日までの九日間、それぞれ指名ストに入つて会社を欠勤した。右申請人塚原の指名ストは、いずれも春斗時における組合業務の処理を理由として行われたものであるところ、右三月六日から同月二〇日までの指名ストは、全一労組が同月四日なした同申請人の組合業務による欠勤申請を会社において拒否したため行われたものであるが、同申請人のその余の指名ストは、いずれも欠勤申請を経ないでなされたものであつた。会社は全一労組の採つた組合業務の処理を理由とする指名ストに対して、その都度文書をもつて違法なストである旨警告を発してきたが、健全な労使関係の確立の為には今しばらくは同労組の自省を待つべきであるとして、強いて懲戒処分の挙に出ることを差し控えていた。

(2)  本件指名ストの経緯

全一労組が昭和四一年五月九日会社に対し「組合業務に専従の為、申請人塚原を、定休日を除き五月一四日から六月二〇日までの間指名ストに入れる」旨通告し、その後、同年六月一九日「申請人塚原の指名ストを六月二七日まで延長する」旨通告し、更に同月二六日「申請人塚原の指名ストを六月二五日で解き、六月二六日から職場に復帰する」旨通告し、次いで同月二七日付をもつて「申請人塚原を六月二六日も指名ストに入れ、二七日から職場に復帰する」旨の通告をなしたこと、申請人塚原は本件指名スト通告に基づき同年五月一四日から同年六月二六日までの間、定休日を除き三八日間に亘り会社を欠勤したこと、この間、同申請人は五月一四日中国に向け出国し、中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席の上、六月二六日帰国したこと、以上の事実については当事者間に争がない。前記疎乙第二一ないし第二四号証、第三二号証、成立に争のない乙第四ないし第一三号証、申請人近藤隆広本人尋問の結果により成立を認め得る疎甲第八号証、第一六号証の各記載、証人入江滉、石井辰三の各証言、申請人近藤隆広、塚原京史各本人尋問の結果を綜合すれば、全一労組では昭和四一年春斗に当り、同年三月初め頃会社に対し、賃金増額のほか、組合から事前に届出のあつた場合は組合役員らの組合業務による欠勤・早退・遅刻を認められたいとの要求をもなし、爾来会社と団交を重ねたが、組合業務のための欠勤などについては、会社は、組合活動の為の欠勤といえども就業規則上は会社の許可事項であり、その許否は専ら業務上の支障の有無を基準として決する旨回答し、従来の態度を変えなかつた。申請人塚原は当時、個人加盟団体であるA・A連帯委員会に加盟し、同会の東京都理事をつとめていた関係で、昭和四一年三月上旬頃同会から申請人塚原に対し同会の代表として、中国で開かれる「中国亜非団結委員会」に出席するよう招待されたので、同申請人は同月中旬頃この件を全一労組中央執行委員会にはかつた。「中国亜非団結委員会」は、沖繩・小笠原島返還斗争を国際的に広め、世界平和と民主主義の確立と、中国アジア諸国の親善をはかることを目的とするものであり、申請人塚原の渡航日程は当初同年五月五日から一カ月間の予定であつた。ところで申請人らを含む全一労組中央執行委員会としては、全一労組が結成当初より沖繩・小笠原島返還要求を組合運動の一環として取り上げてきたので、早速この件を承認し、申請人塚原をA・A連帯委員会の訪中団に派遣することとし積極的にこれを支援することを決定した。しかして同執行委員会では、申請人塚原の中国への渡航につき、組合活動の為という理由を掲げて欠勤申請をすることを検討したが、これより以前、全一労組が同年三月四日付で会社に対してなした申請人塚原の組合業務の処理を理由とする同月六日以降二五日までの定休日を除く一七日間の欠勤申請が拒否され、そのため同申請人をして右の期間指名ストを行わしめたことがあつた関係から、このような一ケ月余に亘る長期の欠勤申請は、とうてい許可を得る見込がないとの判断の下に、むしろ申請人塚原について渡航期間中指名ストを行ない、もつて中国への渡航の目的を達成することに決定した。もつとも申請人塚原は、同年五月一〇日頃全一労組と会社との間に行なわれた団交の終了間際に、会社側交渉委員に対し、組合活動の為の欠勤を認められたい旨要求し、会社側交渉委員からその理由をただされるや、中国への渡航を秘し今次春斗を終結させる為の組合員の説得と、きたるべき夏期一時金斗争の準備活動のためである旨述べたが、会社側交渉委員の了解を得るに至らなかつた。かくして、全一労組は五月九日以後一連の本件指名スト通告をなし、申請人塚原は五月一四日出国し中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席した上同年六月二六日帰国したのであるが、同申請人の出国前の五月一〇日頃には、全一労組の昭和四一年春斗における賃金増額要求については会社との間に妥結を見、同月一五日に協定書を作成するとの了解に達し、同春斗はほぼ終結段階にあつたもので、同月一五日全一労組と会社間に右賃金増額についての協定書が作成され、また同年の夏期一時金斗争についても申請人塚原の出国中の同年六月一八日に円満妥結し協定が締結された。なお会社は本件指名スト通告を受けるやその四日後直ちに文書をもつて全一労組に対し、本件指名ストは、組合活動の為の欠勤許可申請をもせずしてなされたもので正当な争議行為ではない旨警告した。

右認定を動かすに足る疎明はない。

(3)  本件指名ストの正当性の判断

争議行為は、労働条件の維持改善もしくは使用者と労働者との間の労働関係についての紛争解決を目的として行われるべきもので、この目的を逸脱するものは、最早や真の意味の争議行為といいがたく、争議権の保障は与えられないものといわなければならない。前記認定の事実によれば、本件指名ストは、申請人塚原が個人として加盟し、かつその理事をつとめていたA・A連帯委員会の代表として、中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席するために行われたものであるところ、「中国亜非団結委員会」は沖繩・小笠原島返還斗争を国際的に広め、世界平和と民主主義の確立と中国アジア諸国の親善を図ることを目的とする会であることが明らかであるから、本件指名ストは労働条件の維持改善もしくは労使間の労働関係における紛争解決を目的として行われたものとは認めることはできない。したがつて、本件指名ストは正当な争議行為とは評価しがたく、違法であるというべきである。もつとも全一労組は、昭和四一年春斗において、その要求事項の一つとして組合役員らの組合業務による欠勤・早退・遅刻の保障を掲げ、賃金増額要求と併せて会社と団体交渉を重ねたが、組合業務による欠勤などの保障要求は会社の容れるところとならなかつたことは上記認定のとおりであるけれども、本件指名ストは前記組合業務による欠勤などの保障要求を貫徹するために行われたものではなく、専ら申請人塚原をして中国で開かれた「中国亜非団結委員会」に出席させるためになされたものであるから、本件指名ストが行われた当時、なお全一労組と会社との間に組合業務による欠勤などの保障要求についての紛争が継続していたにしても、このことはなんら前記判断の妨げとなるものではない。

三  本件解雇の当否について。

(一)  会社の就業規則には、その第六五条第一項において、「正当な理由なく無許可欠勤一四日以上にわたつたとき」(第四号)、「その他前各号に準ずる程度の行為があつたとき」(第一三号)を懲戒解雇または諭旨解雇の事由と定め、同条第二項には、「前項の規定にかかわらず、その情状特に酌量すべきであるときは、譴責、減給、出勤停止、降格、役付罷免のいずれかに止めることがある」旨規定されていることは当事者間に争がない。しかるところ前示のとおり、申請人近藤は全一労組の委員長として本件指名ストを企画・決定・指令し、申請人塚原は同労組の副委員長として本件指名ストを企画・決定・実行し、昭和四一年五月一四日から同年六月二六日までの間定休日を除く三八日間に亘り会社を欠勤したものであるから、申請人塚原の右欠勤は前記就業規則第六五条一項第四号に定める懲戒事由に該当し、本件指名ストを指令して申請人塚原をして右の如く欠勤せしめた申請人近藤は同条第一三号の懲戒事由に該当することが明らかである。

しかして申請人らが委員長または副委員長として全一労組の最高幹部であつたこと、会社が本件指名スト通告に接し直ちに警告を発したにも拘らず、申請人らはこれを無視して本件指名ストを実施したこと、本件指名ストの日数は三八日間に及ぶものであることなどに鑑みれば申請人らには情状酌量の余地は全くなく、いずれも解雇せられても止むを得ない関係にあつたものと認めるのが相当である。

申請人らは、本件解雇は解雇権を濫用したものであつて無効である旨主張するけれども、仮にその主張の如く申請人らが過去において勤務に精励し良好な勤務成績を残してきたものであるとしても、そのことのみをもつてはいまだ本件解雇の効力を左右するに足りず、右主張はとうてい採用の限りでない。

また申請人らは、争議行為は、集団的労働行為たる組合の行為であつて使用者の指揮命令から従業員が離脱することによつて成立するものであるから、使用者の指揮命令権が及び服務規律の遵守が期待される個別的労働関係を前提とする就業規則上の懲戒責任を科することは許されない旨主張するが、本件指名ストが前示の如き違法なものである以上、争議権の保障はなく市民法上の免責は認められないものと解すべく、したがつて本件指名ストを企画、決定、指令、実行した申請人らは個別的労働関係における懲戒責任を免れ得ないものというべきであるから、右申請人らの主張は採用できない。

(二)  次に申請人らは、本件解雇は申請人らが全一労組の組合員であること若しくは組合活動をしたことを理由とするものであり、又全一労組に対する支配介入であつて、不当労働行為として無効であると主張するので、この点について判断する。

(1)  昭和三七年八月二八日会社内に全一労組が結成されたことについては当事者間に争がなく、成立に争のない疏甲第三、第四号証、第五号証の一、二、第九号証、第四〇号証、証人関邦昭の証言により成立を認め得る疏甲第五三号証の一、二、第五四号証、申請人塚原京史本人尋問の結果により成立を認め得る疏甲第五号証の三、第一一号証の一、二、申請人近藤隆広本人尋問の結果により成立を認め得る疏甲第八号証、第一六号証、弁論の全趣旨により成立を認め得る疏甲第一〇号証、第一二、第一三号証、第一八号証の各記載、証人黒川貞亮、都丸正義の各証言、申請人塚原京史、近藤隆広各本人尋問の結果を綜合すれば次の事実が一応認められ、この認定に反する疏明はない。

会社の本店および笹塚工場等では昭和三六年暮頃から、残業時間の減少等労働条件の改善を求める要求が漸次高まりつつあつたところ、当時本店勤務であつた申請人塚原、小柳亜雄、笹塚工場勤務であつた黒川貞亮らが中心となつて、昭和三七年春頃組合結成準備委員会を作り準備活動をした後、同年八月二八日組合結成大会を開き従業員約一、二〇〇名中八〇〇名位をもつて全一労組を結成した。申請人塚原は右結成大会において書記次長に、次いで同年一二月二八日の全一労組臨時大会で書記長に選任され、翌三八年一月から昭和三九年九月まで全一労組の専従をつとめ(専従の点は当事者間に争がない)、昭和四〇年九月の組合定期大会で副委員長に選任された。申請人近藤は全一労組結成直後から全一労組笹塚支部執行委員となり、昭和三八年五月の全一労組第一回定期大会で全一労組の委員長に選出された。そして申請人らは全一労組の結成以来、その役員として会社に対し、残業時間の減少・賃金増額・一時金の支給等を要求して団交を申し入れ、或いはこれら要求の貫徹を目的とするストライキを行ない、組合内にあつては「組合ニユース」・「教宣ニユース」等の機関紙の発行に力を尽してきた。

(2)  会社が昭和三七年五月頃申請人塚原を本店から阿佐ケ谷支店へ配転したことは当事者間に争がないところ、当時、申請人塚原が全一労組の結成を目指して準備活動中であつたことは前示のとおりである。

しかしながら、会社が同申請人らによる組合結成を惧れ、これを困難ならしめる意図から右配転を行なつたことについては、申請人塚原京史本人尋問の結果中これにそうかの如き供述部分があるが、証人入江滉の証言と対比して措信し得ず、他にこれを認むるに足る疎明はない。却て証人入江滉の証言、申請人塚原京史本人尋問の結果(措信しない部分を除く)によれば、申請人塚原は入社以来主として喫茶関係(カウンター)の業務についていたが、菓子販売の業務にも従事したことがあること、阿佐ケ谷支店は昭和三七年五月頃開設されたものであるところ、たまたま同支店勤務のカウンター二名のうち一名が病気になつた為その欠員補充の必要から前記配転がなされたこと、しかして同申請人も右配転命令を異議なく了承してこれに応じたものであることが疎明されるから、右配転は専ら会社の業務上の必要に基づくものであつたものと認められる。

(3)  全一労組結成直後、会社内に中村労組および全中労組が順次結成せられたことは当事者間に争がなく、成立に争のない疏甲第二八号証、第二九号証の一、二、第三〇ないし第三二号証、疏乙第四七、第四八号証、申請人塚原京史本人尋問の結果により成立を認め得る疏乙第四三、第四四号証、第四九号証、証人飯田守の証言により成立を認め得る疏乙第五〇号証、申請人近藤隆広本人尋問の結果により成立を認め得る疏乙第五一号証の各記載、証人黒川貞亮(一部)、都丸正義(一部)、飯田守の各証言、申請人塚原京史本人尋問の結果(一部)によれば、中村労組は全一労組結成の翌日である昭和三七年八月二九日に従業員約四〇〇名をもつて結成されたこと、中村労組結成の発起人は課長二名、主任七名等であつて、組合員も職長・班長・班長代理等がかなりの数を占めていたこと、全一労組は「組合と会社とは本質的に対抗関係にある」との運動方針を掲げていたのに対し、中村労組においては、「労使は相互依存の関係にあり、相互の利害関係は一致する」との考え方に立つていたこと、しかるところ、間もなくして非組合員の中から、両組合を統一すべきであるとの意見が出はじめ、昭和三七年一一月三日頃これらの者が統一促進有志会を作り全職場の従業員に両組合の統一を呼びかけたこと、これに呼応して全一労組内でも中村労組との統一を希望する組合員が三々五々脱退しはじめ、同年一二月一七日頃には同労組の組合員数は約七〇名程度に減少したこと、全一労組の脱退者は前記統一促進有志会の者らと共同して、その頃、新中村屋労働組合を結成し、同労組は同月二九日頃中村労組と組織統一を計り、ここに全中労組の結成を見るに至つたこと、以上の事実が一応認められる。しかしながら、中村労組および統一促進有志会の結成が会社の指示もしくは意図によるものであること、会社が中村労組の組合員である職制を通じて全一労組員に対し、申請人ら主張の如き宣伝をなさしめ、或いは統一促進有志会を通じ、全一労組を上部団体たる総評全国一般から脱退させ企業内組合とするため、中村労組との統一を呼びかけるなどして全一労組の組織弱体化を狙つて分裂工作をしたことおよび全一労組員の大量脱退が会社の工作による結果であることについては、証人黒川貞亮、都丸正義、申請人塚原京史、近藤隆広の各供述中あたかもこれにそうかの如き供述部分は、いずれも前記採用の各疏明資料に照らして措信し得ず、他にこれを認めるに足る疏明はない。却て前掲採用の各疏明資料によれば、申請人塚原らは全一労組の結成の時期を昭和三七年九月一二日と予定していたが、中村労組において同年八月二八日組合結成趣意書および加入申込書を全職場に配付した為、急遽組合結成趣意書および加入申込書を全職場に配付したこと、このため両組合の発起人間において結成一本化の話合が進められ、両者間に統一結成の了解がほぼ成立するに至つたので、中村労組側は当日予定していた新宿安田生命ホールにおける結成大会の開催を延期することとし、右ホールの予約を取り消したところ、全一労組側は同日右ホールを使用して結成大会を開くに至つたため、中村労組も翌日組合結成大会を開いたこと、従つて全一労組の結成大会に集まつた者約八〇〇名の中には、中村労組と錯誤して加入届を提出した者、或いは中村労組にも重ねて加入した者が多数いたこと(申請人塚原らは結成前、全一労組への加入者を約四〇〇名と見積つていた)、右のような事情から、中村労組と全一労組は結成当初から組合員の整理ないし両組合の統一を検討するところとなつたが、この間にあつて前記統一促進有志会が積極的に両労組の統一を呼びかけ、又全一労組内部でも、経営者との対決を基本とする執行部の運動方針に追随し得ずとして脱退する者や、上部団体たる総評全国一般からの脱退、中村労組との統一を希望する声が大きくなつてきたこと(この一派に松野会と称する有力グループがあつた。なお全一労組では結成準備中から既に上部団体を総評、中立労連の何れにするかで意見の対立があつた)、そこで全一労組では中央執行委員会において中村労組との統一問題を本格的に取り上げて論議した結果、統一自体は承認され、統一の方法について協議する為、昭和三七年一二月中旬頃両労組間に統一対策委員会が設けられたこと、しかして同委員会では統一の基本として〈1〉全一労組は上部団体である総評全国一般を脱退して統一の基盤を作ることおよび〈2〉各労組はそれぞれ臨時大会を開いて統一を計ることが決定されたこと、右決定に従い、全一労組では、その頃、統一問題を討議するための代議員大会が開かれたが、執行部は上部団体として総評全国一般を固執し、専ら統一賛成派の松野会に対する批難に終始した為、同大会は結局流会となつたこと、松野会派はこのような執行部の方針に反感を抱き、間もなく全一労組を脱退し、前記のとおり統一促進有志会と共に新中村屋労組を結成し、間もなく中村労組と統一して全中労組の結成を見るに至つたこと、右の如き経緯の中で全一労組の組合員数は約七〇名に減少したものであること、以上の事実が疏明され、右の事実に徴せば、全一労組の組合員数が前記の如く減少するに至つたのは、専ら全一労組の内部事情に基因するものと認められる。

(4)  証人都丸正義、飯田守の各証言、申請人塚原京史、近藤隆広各本人尋問の結果を綜合すれば、全一労組が組織建直しを計るために開いた昭和三七年一二月二八日の臨時大会において委員長に飯田守、副委員長に都丸正義、黒川貞亮の両名、書記長に申請人塚原がそれぞれ選出されたところ、飯田守はその三日後に全一労組を脱退したことが認められる。しかしながら右飯田守の脱退が会社の勧奨によるものであることについては、証人都丸正義の証言、申請人塚原京史、近藤隆広各本人尋問の結果中これにそうかの如き供述部分があるが、証人飯田守の証言と対比して措信し得ず、他にこれを認むるに足る疏明はない。

(5)  成立に争のない疏甲第二二号証の一、二、第二三号証の一ないし三の各記載および申請人塚原京史本人尋問の結果によれば、会社は昭和三八年四月二六日から八月二七日の間計五回に亘つて社内報を各職場の所属長を介して従業員に配付したこと、右社内報のうち同年七月二〇日付のものには、「全一労組の情宣をみますと、会社のすることはすぐ不当労働行為といつてきめつけ会社の正当な言動をおさえつけようとしたり、なんでも斗争斗争と書きたてて煽動をこととし、さらには事実をわい曲したり誇大に宣伝したり全く誠意のカケラも見られません‥‥」との記載があることが認められる。しかし右の如き記載だけから直ちにこれをもつて全一労組の指導方針に対する誹謗であるとは断定しがたく、他に会社が全一労組の指導方針を誹謗する社内報を配布した事実を認めるに足る疏明はない。また申請人らは、昭和三八年夏期一時金につき会社が全中労組と同一内容の協定の締結を迫つて全一労組との団体交渉を故なく拒否した旨主張するけれども、これを認めるに足る疏明はない。

(6)  会社が全中労組との間に昭和三八年三月二四日ユニオンシヨツプ協定を、次いで同年六月二六日チエツクオフ協定を締結したこと、同協定の成立後において全中労組を脱退したと名のる六一名につき、会社が依然としてチエツクオフを継続したことは当事者間に争がなく、成立に争のない疏乙第三一号証、第五八号証の一ないし五の各記載、証人関邦昭の証言によれば、全一労組は全中労組に対し昭和三八年六月一八日から同年七月四日までの間に数次に亘り、鈴木良兼ら六一名が全中労組を脱退し、全一労組に加入した旨通告したが、会社は同人らを全中労組の組合員として取り扱い、同年七月分以降昭和三九年六月分までの同人らの賃金から組合費を天引きし、これを全中労組に交付し続けたことが一応認められる。しかしながら会社が全一労組の組織拡大を阻止する意図をもつて全中労組との間に前記各協定を締結したものであること、および前記六一名に対するチエツクオフの継続が会社の全一労組に対する何らかの意図の下になされたものであることについては、いずれもこれを認むるに足る疏明はない。却て申請人塚原京史本人尋問の結果により成立を認め得る疏乙第五二号証の記載、証人都丸正義、関邦昭の各証言および弁論の全趣旨によれば、前記ユニオンシヨツプ協定は専ら全中労組の強い要求に基づいて締結せられたものであり、会社は当初その締結に反対の態度を示していたものであること、前記六一名に対するチエツクオフの継続は、全中労組から会社に対し右六一名の脱退届は全中労組の組合規約に反し、脱退の効力はなく右六一名は依然として全中労組の組合員であるから、チエツクオフを継続されたい旨の要求がなされたことによるものであること、および当時全一労組と全中労組間に右六一名の所属について紛議があつた関係から会社は全一労組に対して屡々右六一名の所属については両組合間の話合によつて解決すべきことを要請するとともに、全中労組において右六一名の脱退を認めずチエツクオフの継続を要求する以上やむを得ないとの態度を表明していたことが疏明される。

(7)  前記六一名が前記チエツクオフを不当として会社を被告として昭和三八年九月一日東京地方裁判所に未払賃金請求の訴訟を提起し、右訴訟は同庁昭和三八年(ワ)第七五六五号事件として係属したこと、右訴訟の係属中に会社が原告の一人であつた藤田亀代治に対し、大阪支店への配転を命じたことは当事者間に争がない。しかしながら右訴訟の係属中、会社が職制を通じて右六一名に対し、申請人ら主張の如き脱退勧誘を行つたこと並びに藤田に対する配転が同人の訴訟活動を困難ならしめる意図の下になされたものであることについては、これを認めるに足る疏明はない。

(8)  申請人塚原が昭和三九年九月末日全一労組の専従を解かれ、職場に復帰するに至つたところ、会社は同年一〇月九日同申請人をその原職場たる阿佐ケ谷売店喫茶部から新原町田売店へ配転したことについては当事者間に争がなく前掲疏乙第三〇証の記載によれば、会社と全一労組との間の専従協定には「専従者が専従業務を終了したときは、原則として原職に復帰させる」旨定められていることが一応認められる。しかしながら、会社が申請人塚原の組合活動を困難ならしめる意図で右配転を命じたことについては、申請人塚原京史本人尋問の結果中これにそうが如き供述部分があるけれども、証人入江滉の証言と対比して措信し得ず、他にこれを認めるに足る疏明はない。却て証人入江滉の証言、申請人塚原京史本人尋問の結果(但し措信しない部分を除く)によれば、会社は前記協定に従つて申請人塚原を原職場である阿佐ケ谷売店に復帰させる予定であつたところ、たまたま同申請人が痔の手術直後であつたので、通勤に便利な新原町田売店へ配転したものであること、申請人塚原も右配転についてその趣旨を充分了解してこれに応じたものであることが窺われる。

(9)  申請人塚原京史本人尋問の結果によれば、会社は昭和三七年においては一定事項の団交について、全一労組と全中労組にほぼ同程度の時間をかけ且つ交互にこれを行なつていたが、翌三八年以降は全中労組と先ず団交を行ない又全中労組との団交には会社側交渉委員として社長も出席したことが一応認められる。しかしながら昭和三九年以降職場内での組合活動、組合活動の為の会社欠勤、組合活動の為の会社施設の利用について、会社が全一労組と全中労組とを差別して取り扱つたことについては、申請人塚原京史本人尋問の結果中これにそうかの如き供述部分があるけれども、たやすく措信し難く、他にこれを認むるに足る疏明はない。なお会社が、全一労組員および全中労組員からなされた組合活動の為の欠勤申請について、専ら業務上の支障の有無を基準として許可の決定をしてきたことは、すでに認定したところである。

(10)  前記(1)で認定した事実に徴せば、会社は申請人らが全一労組の結成以来その幹部として活発な組合活動を行なつてきたことを知悉していたことが明かである。しかし、この事から直ちに本件解雇が申請人らが全一労組の組合員であること若しくは組合活動をしたことの故をもつてなされたものと認めることは相当でなく、却て前記二の(2)および(3)で認定した事実を勘案すれば、会社は申請人らが組合員でなく又組合活動を行なつていなかつたとしてもなお解雇をもつて臨んだであろうことを窺うに足り、他に本件解雇が、申請人らが全一労組の組合員であること若しくは組合活動を行なつたことの故をもつてなされたものであることを認めるに足る疏明はない。したがつて、本件解雇が不当労働行為に該るとなす申請人らの主張はとうてい採用の限りでない。

四  以上によれば、会社のなした申請人らに対する本件解雇はいずれも有効というほかはなく、申請人らと会社との間の雇用契約はいずれも右解雇により終了に帰したというべきである。したがつて申請人らと会社との間の雇用関係がその後においてもなお存続することを前提とする本件各申請は、被保全権利の疏明なきに帰し、かつ保証を立てしめて認容することも相当ではないと認めるから、いずれも失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 兼築義春 菅原晴郎 神原夏樹)

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